9.モスクワ ボルガ川クルーズ@

 
 「その夏、小さいパンひと切れの値段が、 100万ルーブルにはね上がった。1999年、20世紀最後の夏であった」。
 フレデリック・フォーサイスは1996年に、ロシアの近未来を描いた小説『イコン』を発表した。その小説はこんな書き出しで始まっていた。
アルバート通りの似顔絵師たち

 1999年の夏が現実にやってきたとき、私はロシアを訪れ、モスクワから川船でボルガ川沿いに古都ウグリチ、コストロマ、ヤロスラブリ、ルィビンスク貯水池、ヨーロッパ最大の湖ラドガ、第2の湖オネガと湖中のキジ島などを経てサンクト・ペテルブルグまで旅した。

 ロシア・レポートは、まず首都モスクワにご案内する。成田から搭乗したロシア国営航空アエロフロートは、行きも帰りも乗客率30%のガラガラだった。


■氾濫する商業広告


 かつて国家スローガンばかりだったモスクワ市内に商業看板が立ち並び、一見ロシアが豊かになったかのように思える。街路標識にコカコーラの広告がぶら下がり、24時間営業のカジノ、外国製自動車、海外旅行の宣伝板が立つ。だが店頭の輸入食料品を大多数の人は買うことができない。働かざる者食うべからずと言うが、働こうにも職がない。

 1998年から1年間で150以上の銀行がつぶれた。激しいインフレのため、旧ルーブルは1000分の1の新ルーブルに切り替えられた。給料遅配、失業、飢餓、売り食いのタケノコ生活は、日本の戦後に似た現実である。

 自由なロシアになったことを人々は喜んでいるが、国内生産は停滞し、マフィアや麻薬中毒者の横行に苦しんでいる。

 クレムリンの城壁は15世紀の面影を残していた。赤の広場のレーニン廟は閑散としてひと握りの外人観光客が訪れるばかり。ロシア人の長い行列の後について、長時間待ってレーニンの顔を見たのは40年前のことだ。城壁の中に入り、宝物殿のような武器庫や寺院、鐘楼を見学した。到着日の日中の気温は24度、翌日は10度。ちょうど季節の変わり目で、天候は不順だった。



 サーカスを見物した。サーカスはソビエト時代から大衆娯楽の花形で、市内に常設館がある。館内は子供連れの客で賑わい、ジュースやアイスクリームが売れていた。


■墓碑はロシア近代史

 モスクワ川に近いノボテビッチ女子修道院に行く。修道院の前に湖がある。そこで白鳥を見たチャイコフスキーがバレー組曲を作ったところだ。ノボとは“新”を意味する。

「16世紀の創設当時は“新”でしたが、今は古びています」とガイドが説明した。古寂びた新修道院近くの墓地にフルシチョフ、チェーホフ、シャリアピン、イリューシン、ショスタコビッチ、ミコヤンなど著名な政治家、音楽家、科学者らが眠っていて、さながらロシア近代史のようである。

 ツルゲーネフの小説にも描かれプーシキンの旧家があるアルバート通りを歩いた。ロシアでは都会でも田舎でも全く自転車を見ない。自転車に乗れない人も少なくない。寒い風土に向かないのだろうか。

 CDとイコンを買った。イコンは聖像と訳される。聖母マリアとキリスト、聖人らを描いたロシア正教の板絵である。アイコンと読めばコンピュータ用語になる。


 地下鉄に乗った。核シェルターにも使える地底の駅に、エスカレーターでまっしぐらに下る。速度は日本の2倍以上に感じられた。太ったロシア婦人が足を踏み外して、コロコロ転がり落ちて行くという一口話があるくらいだ。各駅各様の壮麗なデザインは宮殿のようだ。




■パンと塩の歓迎

 ナルコム・パホーモフ号は3日目の夕方、モスクワ川の北川岸港から錨を上げて出航した。これより266キロ北上しボルガ上流の古都ウグリチを目指す。川船とはいえ船は3200トンもあり、サウナを備えている。
 パホーモフ号に乗船するとき、乗船口に民族衣装の女性がパンと塩を持って出迎えた。乗客はパンをちぎり塩を付けて食べる。賓客を迎えるときのロシアの歓迎の習慣である。

 サンクト・ペテルブルグからモスクワへの初航路はまだ寒く、船は川の薄氷を割って進んだという。折り返してペテルブルグに向かうこの船は、今夏2回目のクルーズだ。出航直後に上甲板で船長招待カクテル・パーティーが行われたが、5月の川風が冷たかった。このクルーズに東大教授・経済学者の林周二さんが乗船されていて、図らずもロシア各地を共々訪問することになった。

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