39. クレメンチュクの農村(ウクライナ)
ドニエプル川の川岸で憩う人々
日本出発から8日間が過ぎた。
ラジオもテレビも新聞もないが、船上生活は結構忙しい。モーニング・ストレッチに始まり「ロシア語初級講座」「フランス人(日本人)乗客といっしょにロシア民謡を歌いましょう」などのプログラムが組まれていて暇がない。
マーシャル・リュバルカ号はドニエプル川をゆったり航行する。両岸は一面の緑だ。昨日のドニエプロペトロフスクの町には「カール・マルクス通り」という古い名称が残っていた。幼児が町に溢れていた。6月1日はウクライナの子供の日だった。子供の日はサー力スや露天市が立ち、広場で歌と踊りあって、人々はお祭り気分だった。広場のレーニン像の台座に、着飾った幼児らが大勢よじ登って腰を下ろしていた。
「パンと塩」の出迎え
6月2日夕刻、クレメンチュク到着。河口から数えて4つ目の水門がクレメンチュク水門だった。市の人口は、2001年12月の国勢調査では23万407人。
ウクライナ穀倉地帯を貫く道
前後して走るフランス人グループのバス
この地が帝政ロシアの農耕軽騎兵コサックの中心だったのは「17世紀のこと。1916年、つまりソビエト革命の前年には兵士の反乱が起きている。第2次大戦後は工業都市として発展し、大規模自動車工場、石油化学工場、水力発電所がある。穀意地帯の中の代表的な村オメリ二クを訪問した。港から40キロの平坦な道をバスがひた走る。しばらくは田園に煙突が林立するチグハグな光景だ。牛の群れとカラスの集団が道に溢れている。
雨雲が去り、ものの影が濃くなった。スラブ民族の習慣で、学校でも農家でも「パンと塩」が我々を出迎えてくれた。
学校でも村でもパンと塩で出迎えられた
保育園と小・中学校
オメリ二ク村「I〜Vステップ学校」のプレート
バスを降りると子供たちが道端でコインを振りかざして取り替えようと身振りする。インフレで無価値になった小銭らしい。
校長先生のお話を聞く。
「春には綺麗な桜が咲く村です。古く青銅器時代がら人が住んでいました。革命を二度、戦争を数度経験しました。村は80年代に発展しましたが独立後は様々なことが変わりました。コルホーズがなくなって人々は3ヘクタールの耕地を所有していますが、困難に直面しています。問題は村に子供が産まれないことです。ウクライナ全体に共通する失業が原因です。ソビエト時代は一家に平均3人いた子供が今は1人。人口3000人の村で、保育園に通う子供はわずか50人に過ぎません」
保育園では乳児と幼児の昼寝用ベッドルームを見学、小・中学校では生徒の唱歌を観賞した。
「国語はウクライナ語ですが並行して小学5年生までロシア語を教えます。主要な新聞雑誌はロシア語で書かれているからです。民族構成はウクライナ人とロシア人を主とし、白ロシア人もいます」


乳児と幼児の昼寝用ベッド
ブドウ棚の下の饗応
農民は家族ぐるみで大歓迎
軒が低い農家を訪問し内部を見せてもらった。じゅうたんの部屋にイコンが飾られペチカがある。家藤の写真は壁いっぱいだ。ベッドは意外に小さい。どうぞと誘われ垂直のハシゴを上って屋根裏を見ると、保存食のピクルスのビンが所狭しと貯えられていた。
ブドウ棚の下に長いテーブルとベンチが用意され、心尽くしの野菜料理が並んだ。自家製だというご自慢の酒は強烈な地ウォッ力。飲めない人には葡萄ジュース。赤カブの輪切り、真っ赤な山盛りイチゴとトマト、コンビネーションサラダボウル、紅花と白菊が食卓を飾る。
ブドウ棚の下のもてなし
「またお出で」と我々を見送る猫
酒が入った農夫は声を大にして我々にカンパイを迫る。「日本人のため」の乾杯だそうだ。昔この村にイルクーツクから流れてきた日本人が住み着き、働き者で村人に好かれたことがあるのですよ、とワーリャが通訳する。農夫はとつとつと話し続ける。
船中講座「ウクライナの伝統と習慣」の中で農民の好物の朝粥クチャが紹介されたことがあった。干葡萄やハチミツを入れて食べるのだが、1年の初めにクチャを天井に投げつける風習がある。沢山くっつけばくっつくほど縁起がよく、その年は食物に困らないと信じられている。天井をじっくり見るつもりだったが忘れた。帰りのバスで思い出したが後の祭り。
船上で過ごす最後の夜は船長主催でカクテルパーティーが開かれた。明日はいよいよ終着の下船地キエフである。
船上最後の夜は船長主催のカクテルパーティー

世界の旅へ